LOGIN九条に渡された革の手帳の最初のページには、ボールペンで力強くこう書かれていた。
――「自分のルールを書け。負けたくないなら、まず“|損を減らす設計《リスクヘッジ》”から始めろ。」
そう言われてまず書いたのは——
『下がってる時に売らない』
……当たり前過ぎる、我ながらアホっぽいルールだ。九条をチラッと見ると、身を乗り出してノートを覗き込み、ニヤッと笑った。
「ほう、悪くないルールだ」
褒められたのが意外だったが、それ以降はずっと手が止まっていた。
損を減らす? 設計? そもそも、投資にそんなルールがあるなんて初めて聞いた。
「考えても分からないか?じゃあまず、1万円だけ何か買ってみろ」
ソファにふんぞり返ったまま、九条が言った。
「緊張する必要はねぇ。入門者はとにかく“場数”だ。だが——適当に選ぶなら、今すぐ帰れ」
「……はい、真剣に選びます」
預かってるお金とはいえ、今の私にとっては一万円でも大金だ。
息を整え、スマホの証券アプリを開いた。慣れない指でログインし、「人気銘柄ランキング」へ。
「今上がってる株……注目されている銘柄」
つい、検索画面にそう打ち込もうとした時。
「——おい、やめろ」
九条の声が低く響いた。
「それ、やってる時点でお前は“負け組”だ。『上がってるから買う』は、バカの思考だ」
思わず手が止まる。
「どういう……意味ですか?株って結局は人気投票みたいなものですよね」
「バカたれ……“上がってる”ってのは、もう他人が仕込んでるってことだ。
つまり、今のお前は“爆発した打ち上げ花火をジャンプして掴みにいこう”としてる。な?バカだろ」
「……たしかに」
言い方はキツイが間違ってはいない。
「値動きの結果を見て判断するな。“理由”がなけりゃ、選ぶな。銘柄じゃなく“構造”を見ろ」
ていうか構造って何?
まるで経済学の教科書をいきなり開かされたような気分だった。
「じゃあ……こういうことかな」
私は九条に聞かれないよう、無言のまま有名企業の銘柄を探し始めた。
「正直に言ってみろ。いま、“有名”なのを探してただろ」
「……はい。やっぱり、それが安心かなって……」
九条は鼻で笑った。
「女ってのは、どうしても“ブランド信仰”が抜けねぇんだよな」
「ちょ……どういう意味ですか?ていうか最近のポリコレって知ってます?」
九条は腕からロレックスを外すと、指で弾いてテーブルに置いた。
「おまえ正月に、こういう有名ブランドの福袋、買ったことあるだろ?」
「……あります。昔は毎年のように」
「で、中身は?」
「まあ……微妙なのもありましたけど、ブランドだし、損はしてないと思ってました」
「それが“罠”だ。そしてお前はカモだ」
「……え?なんでですか!」
「中身を見ずに“名前”だけで買ったもんに、なぜ満足できると思った? 損してても、“損した気がしない”ように作られてんだよ」
「……」
確かに、満足できなくて、来年はこそはもっとって思ってた自分がいる。
「株も同じだ。“有名銘柄”を盲目的に選ぶのは、“見えない福袋”に全財産突っ込むのと変わらない」
九条は目を細めて、低く静かに言った。
「いいか。ブランドは“安心”じゃない。“中身”を読め。それが投資だ」
その言葉は、どこか私の過去すべてに刺さった気がした。銘柄じゃない、知識でも直感でもない。
構造、つまり”中身”を“視る目”を持て——九条はそう言っている。 「じゃ、一万円の損害ならハイリスクハイリターンで、これから伸びそうな新興株。 変動は大きいけど、上がった時の利幅をうまく拾えれば——」 「そんなの選んでお前、早々に死ぬ気か?それは投資じゃなくて|投機《ギャンブル》だバカ」 答えも教えずに、私の試みを何度も否定する九条に、流石にイラっとした私は 「あのですね……私は1年で10倍にしなきゃならないんです!利回りで言えば1000%ですよ!?そりゃ投機的にもなりますって!」つい口を尖らせ、怒りをぶつけた。
「正直、私には時間がないんです。だから、リスクをとってでも攻めるしか——」
「甘えんな」
九条が睨む。
「その時点で、お前は“数字”の意味を理解していない」
「……?」
彼はすっと手帳を取り、私の前に数字を書いた。
「投資には”複利”という化物が住む。これを知らずに10倍を語るな」
【100万円 → 年利100% → 翌年200万 → 3年後400万 → 4年後800万】「毎年100%で回せば、4年で8倍だ。年利60%でも5年で10倍になる。
つまり複利を活かせば100%×10年じゃなくて半分で到達する。 いいか? 投資とはこの“化け物を飼い慣らすゲーム”なんだよ」そうか、投資元本が増えれば倍々ゲームのように利回りも膨らむ。
複利……今までそんなこと考えたこともなかった。
「複利がすごいのは分かりました……でも私には一年しか猶予が」「年を月に置き換えて考えろ、それが数字、投資の構造を知るってことだ。決して無理をするな、的確な方法で元本を増やせ。そして絶対に減らすな」
「でも、投資をしている限り、うまくいかないこともありますよね!?」 「だからこそ、ルールがいる。法律より厳しく、自分が決めたルールは絶対に守れ。それを忘れて『怖い』と思った瞬間、お前はもう負けているんだ」その口調には、怒りではなく、どこか真剣な“願い”のようなものがあった。
この人は、本気で“私に負けてほしくない”と思っている——そう感じた。
「じゃあ……どう選べばいいんですか?」
「簡単だ。観察と仮説だ。たとえば、お前が使って“便利だった”サービスは?」
少し考えて、私は口にした。
「……宅配アプリの、ABZフード。週3くらいで使ってます」
「よし。それがきっかけで構わない。なら、その会社の業績、ユーザー数、展開地域、ライバルは? IRと四季報も読め」
私はスマホでその企業を念入りに調べた。
そして、最近ライバルをおさえて、業界トップに成長中の中堅企業だと知る。「そしたら、どう業績が推移するか仮説をたてろ」
私なりに考えて、週末の中間決算で予想より30%超の上方修正と仮説をたてた。
「よし、じゃあ買うか、買わないか、お前が決めろ」 「……買います。1万円分だけ」 指先が、震えた。 あの三條も最初はこんな風に緊張したのだろうか。画面の「買い注文」ボタンをタップする。その瞬間、胸がドクンと鳴る。
この瞬間、ついに私は「投資家」になったのだ。
——そのとき、スマホに一通のDMが届いた。
《君の“最初の選択”、見届けさせてもらう。──三條圭》
その文字を見た瞬間、また少し鼓動が速くなった。
彼は見ている。この“底辺”からの挑戦の行方を——
私は、震える手で、ノートの最初のページにこう書き加えた。
《下がっている時に売らない。感情で売買しない。情報で決める。仮説が崩れたら即撤退》
たった四つ。けれど、それが私の“|法律《ルール》”だった。
(つづく)土曜日の朝。 目を開けた瞬間、胃の奥が重かった。 眠れなかった。結局、ほとんど。 スマホを手に取る。 昨夜の圭からのメッセージ。 『明日の夜、話がある。19時に、いつもの店で待っている』 九条からのメッセージ。 『大事な話がある。明日、必ず来てくれ』 ——待って。 19時、いつもの店。 20時、九条のオフィス。 あれ、これって微妙にダブルブッキングしてる? 昨夜、返信した時は気づかなかった。頭がぼんやりしていて、確認もせずに、どちらにも『行きます』と送ってしまった。 ——どうしよう。 1時間差。 圭との話が早く終われば、間に合うかもしれない。でも—— 『話がある』 二人とも、同じ言葉を使っていた。 短い話で終わるとは、思えない。 仕事のことを考えれば、九条だ。大富グループへの対策、凛の調査結果——話し合うべきことは山積みだ。 でも—— 副社長室で見た、冷たい目。『天道か。何か用か』という他人行儀な声。 それなのに、向こうから『話がある』と言ってきた。 『もうお前とは関わらない』——そう言われるのかもしれない。 それとも—— いや、期待するな。 まずは圭を優先しよう。 九条には、少し遅れると伝えればいい。 九条にメッセージを送る。 『すみません、少し遅れます。20時半には必ず伺います』 送信。 数分後、返信が来た。 『わかった。無理するな』 いつもより素っ気ない。 ——九条も、何か変だ。 いや、考えすぎだ。きっと。 シャワーを浴びる。着替える。化粧をする。 鏡の中の顔色の悪さを、チークでごまかす。 休日出勤だ。どうせ、見られる相手は限られている。 ◇ 今日もなんとか、仕事を終えた。 土曜は証券市場が閉じているので、株価は公には動かない。 それだけが、唯一の救いだった。 まあ、何も解決はしていないけど。 このまま放置すれば、含み損は週明けには30億に達するかもしれない。 夕方、18時。 タクシーに乗り込んだ。「六本木の——」 行き先を告げようとした瞬間、スマホが鳴った。 圭からだ。「もしもし」『今、どこにいる』 いつもの低い声。でも、どこか——張り詰めている。「タクシーに乗ったところです。これから、いつもの店に——」『店を変える』 ——え?
火曜日、午後2時。 三條グループ本社ビル、28階会議室。 長いテーブルの端に座らされた私を、取締役たちの視線が刺していた。「それで、天道さん。この25億円の含み損について、どうお考えですか」 取締役の一人——名前は覚えていない。五十代くらいの、眼鏡をかけた男性——が、冷たい声で言った。 パサ、パサ。資料をめくる音が、やけに大きく聞こえる。「現在、市場の動向を注視しながら——」「注視? 注視している間に、損失は膨らみ続けていますが」 別の取締役が口を挟む。「素人に600億を任せた結果がこれですか」 ——素人。 分かってる。ついこの間まで、借金を抱えた底辺OLだった。 でも——「三條副社長の強い後押しがあったとはいえ、我々はこの人事に当初から懸念を示していました」「結果的に、その懸念が的中したわけですね」 空調が、低く唸っている。それ以外は、沈黙。 同情ではない。期待でもない。 ——処分を待つ被告を見る、裁判官の目だ。「運用資産の縮小を提案します」 最初に発言した取締役が、書類を閉じた。「現在の600億を、100億まで段階的に縮小。残りは本社の運用部門で管理する」 ——100億。「MISAKIシンデレラファンドは事実上の解体となりますが。天道さんには、部門長など役職を用意しますので、配置転換を——」 ——勝手なことを。原資の200億を600億まで拡大させたのは、私と九条なのに。 ——手柄だけ奪うつもりだ。「お待ちください」 声が出ていた。 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。 取締役たちが、私を見る。「この下落は、大富グループによる意図的な攻撃です。株価操作と風説の流布——明確な市場操作の証拠があります」「証拠?」「はい。空売りの異常な増加、関連銘柄との連動した売り圧力、SNSでの組織的な情報拡散——すべてが連動しています」 昨夜、九条と話し合った内容を、そのまま伝える。 取締役たちの表情が、わずかに変わった。「つまり、我々が撤退すれば——大富グループの思う壺です」「しかし、現実に損失は——」「本当に損失ですか? 今この時点で清算したとしても、300億以上の利益が確定しますけど」「……それは」 発言した取締役が口ごもる。隣の男が、気まずそうに資料をめくり直した。「違いますか? 簡単な算
月曜日の朝。 出社して最初に確認したのは、保有銘柄の株価だった。 画面に表示された数字を見た瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。 ——レヴァンスト、前日比マイナス4.2%。 先週から続いている下落が、止まらない。 原因は分かっている。大富グループの仕掛けだ。 あの手紙が届いてから3日。彼らは宣言通り、動き始めていた。 レヴァンスト株に対する空売りの増加。関連銘柄への売り圧力。SNSでの風説の流布。 一つ一つは小さな動きだ。でも、それが積み重なって——じわじわと、株価を蝕んでいる。 大量にポジションを持っている私のファンドには、それがダイレクトに響く。「天道さん」 白石凛の声がした。振り向くと、彼女が資料を手に立っていた。「含み損、20億円を超えました」 ——20億。「対策は検討されていますか」「……検討中です」「そうですか」 凛の声には、感情がない。責めるでも、同情するでもない。ただ、事実を述べているだけ。「取締役会から、説明を求められています。明日の午後、臨時会議が入りました」「……分かりました」 凛が去っていく。 私は画面を見つめたまま、動けなかった。 ——どうすればいい。 構造を見て戦略を組み立てるのは得意だ。でも、持つ側として資産を守る経験も知識もない。 ——そりゃそうだ。最近まで、借金を抱えた底辺OLだったんだから。 分からない。何も、分からない。 ◇ 昼休み。 食欲がなかった。でも、何か口にしないと倒れそうだった。 コンビニで買ったおにぎりを、給湯室で齧る。味がしない。砂を噛んでいるみたいだ。 スマホを見る。 九条からの返信は、まだない。あの夜から、ずっと。 ——何かあったのかな。 画面を閉じる。今は、自分のことで精一杯だ。 廊下から、声が聞こえてきた。「天道さん、やばいらしいよ」「20億の含み損だって。素人に600億任せるからだよ」「三條副社長も、見る目なかったね」 ——また、か。 もう慣れた。慣れたはずだ。 おにぎりを半分残して、席に戻った。 ◇ 午後3時半。大引け。 画面を見る。 レヴァンスト、終値でさらにマイナス1.8%。 含み損は、25億円に膨らんでいた。 ——私たちもショートポジションを持つ? 空売りして、下がったところで買い戻せば。
金曜日の夜。 六本木レジェンド倶楽部。 業界パーティの会場は、相変わらず眩しかった。シャンデリアの光が、磨き上げられた床に反射している。シャンパングラスが触れ合う音。低く抑えた笑い声。高級な香水の匂いが、空気に溶けている。 ——また、ここか。 数ヶ月前、初めて圭さんに連れられて来た時のことを思い出す。あの時の私は、何も知らなかった。この世界の構造も、自分の立ち位置も。 今は——少しだけ、見えるようになった。 でも、見えるようになった分だけ、息苦しさも増している。「美咲、大丈夫か」 隣を歩く圭が、小声で聞いてきた。「はい、平気です」 嘘だ。平気じゃない。 この1週間、大富グループの動きを追い続けていた。九条さんからの返信はまだない。白石凛の資料の違和感も、まだ解消できていない。 頭の中が、ぐちゃぐちゃだ。「顔色が悪い」「……そうですか?」「ああ。無理するな」 圭の声が、いつもより柔らかい。 ——この人は、本当によく見ている。 私の小さな変化を、見逃さない。それが嬉しいような、怖いような。「三條副社長、お久しぶりです」「やあ、ご無沙汰してます」 圭が、近づいてきた男性と握手を交わす。私は一歩下がって、その様子を眺めていた。 こういう場での圭は、いつもと違う。完璧な笑顔。完璧な所作。完璧な会話。 ——仮面だ。 あの笑顔の下に、何があるのか。私には、まだ分からない。 ◇ パーティが始まって1時間。 圭は次々と挨拶に追われ、私は一人でシャンパンを片手に壁際に立っていた。 人の流れを観察する。誰が誰と話しているか。どんな表情で。どんな距離感で。 ——あの二人は、表向きは仲が良さそうだけど、目が笑ってない。 ——あの女性は、あの男性に気があるけど、男性の方は別の誰かを探してる。 ——あの老紳士は、さっきから三回も時計を見た。早く帰りたいんだろう。 こういうことが、自然と目に入ってくる。昔からそうだった。でも、それが「武器」だと言われたのは、九条さんが初めてだ。 その時——「久しぶりだな、天道美咲」 背後から、声がした。 低い声。聞き覚えがある。聞きたくない声。 振り向く前に、分かっていた。 大富龍平《だいとみりゅうへい》。 振り向いた瞬間、彼の顔が視界に入った。 相変わらず、整った顔立ち。
九条のオフィスは、相変わらずだった。 コンクリート打ちっぱなしの壁。使い込まれたル・コルビュジエのソファ。窓際に積まれた資料の山。かすかに漂う煙草の残り香。 1ヶ月ぶりに訪れたこの場所は、何も変わっていない。 ——私だけが、変わってしまったのかもしれない。「よう、久しぶりだな」 九条がソファから立ち上がった。いつものように無精髭を生やし、革ジャンの下には皺だらけのシャツ。だけど腕にはロレックス。このちぐはぐさは、もう見慣れた。「すみません、ご無沙汰してました」「忙しかったんだろ。600億の重さは、俺にも想像がつく」 九条がキッチンに向かう。コーヒーメーカーのスイッチ。カチッ。コポコポと水の音。 私はソファに腰を下ろした。革が軋む。体が沈み込む。 ——ここだと、息ができる。「で、何があった」 九条が振り返らずに言った。コーヒーの香りが、部屋に広がり始めている。「……何も、ないです」「嘘つくな。声でわかる」 ——バレてる。「初の大型投資判断があるんです」 言ってしまうと、肩から力が抜けた。「レヴァンストの追加買い増しを検討してます。でも、市場環境が読めなくて……」 コーヒーカップが、目の前に置かれた。白い湯気が立ち上っている。 九条が向かいのソファにどかりと座る。「見せろ」 私はバッグから資料を取り出した。昨夜まとめた分析レポート。数字とグラフがびっしり並んでいる。 九条がページをめくる。眼鏡をかけていないのに、目を細めて読んでいる。老眼なのかもしれない。聞いたことはないけど。 沈黙が落ちる。 パサ、パサ、パサ。紙をめくる音だけが、部屋に響いている。 その間、私は九条の横顔を見ていた。 皺が増えた。目の下の隈も、前より濃い。 ——何かあったのかな。 聞けない。私は弟子で、彼は師匠だ。「悪くない」 九条が顔を上げた。「え?」「この分析、悪くないって言ってんだ。むしろ、1ヶ月前より格段に良くなってる」 その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなった。「ただ——」 九条が資料の一点を指差す。「ここだ。大富グループの動向を、お前は軽視しすぎてる」「大富……」 その名前を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。 大富龍平。あの六本木のパーティで、私に絡んできた男。 そして、レヴァンストの買収工作を見破った私のせ
朝、目を開けた瞬間から、胃が重かった。 カーテンの隙間から漏れる光が、白すぎる。 スマホを見る。7時12分。アラームの3分前。最近はいつもこうだ。体が勝手に起きる。眠れてないのに、眠れない。 布団から出る。素足に、フローリングの冷たさが沁みる。 ——今日で、ちょうど1ヶ月か。 シャワーを浴びる。お湯の音。ザー、それだけが耳の奥に響いている。 いつもなら何も考えなくていい時間。 でも今日は、考えてしまう。 600億。 その数字が、頭から離れない。 ◇ 三條グループ本社ビル。 エントランスに入った瞬間、空調の冷たい風が顔に当たった。無機質だけど、アロマオイルのようなかすかな匂い。 ヒールの音が、大理石の床に響く。コツ、コツ、コツ。 自分の足音なのに、他人のみたいに聞こえる。 エレベーターホールに向かう。すれ違う社員たちの視線を感じる。見てる。絶対見てる。 ——あれが、財界のシンデレラ。 ——600億任されて、調子に乗ってる。 ——素人のくせに。 何も聞こえてない。でも、そう言われてる気がする。 エレベーターのボタンを押す。ピッ。 沈黙。わずかな空調の匂い。 チン。 扉が開く。 ——良かった、中には誰もいない。 32階のボタンを押す。ピッ。扉が閉まる。シュン。 上昇、足元がふわっとする。エレベーター特有の、こんl感覚が前から苦手だった。 小さな鏡に、自分の顔が映っている。 目の下に、うっすら隈がある。コンシーラーで隠したつもりだった。 ——まあ、いいか。 誰も、そんなところ見てない。みんな、私の顔じゃなくて、600億という数字を見てる。 チン。 扉が開く。32階。 MISAKIシンデレラファンドのオフィス。 一歩、踏み出す。 カーペットが、ヒールの音を吸い込んだ。 ◇「天道さん、おはようございます」 声がした。冷たい声。 振り向くと、白石凛が立っていた。 東大首席。外資系証券出身。私より3歳年下。金融知識では、比べものにならない。 目が合う。合ってしまった。逸らせない。逸らしたら負けだ。負けるわけにはいかない。「おはよう、白石さん」 声が震えてないか。大丈夫だ、たぶん。「今日の日経朝刊、ご覧になりましたか」 凛が新聞を差し出す。その動作が、妙にゆっくりに見えた







